かたじけなさに 涙こぼるる
奈良に人が来る理由は様々だと思います。
なぜ奈良なの?奈良が好きな理由は?とずっと聞かれてきましたが、奈良に通っていた理由はひとつだけではないし、いまだに明確な答えは出せていません。聞いた相手が納得できるような、期待しているような答えは全く出せていなくて、毎回聞かれるたびに申し訳ないな、と思っています。ですがせっかくブログをはじめたので、何度かに分けて何がどう好きなのかを書いていきます。
私が奈良を好きな理由のひとつに、神仏がおわす場所だということがあります。日本各地、神仏がおわすところはたくさんあって、もちろん奈良だけではないのですが、私は奈良にいる神様や仏様に惹かれるのです。
西行が伊勢に参詣した際に
「なにごとの おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
という歌を詠んだそうですが、その境地に共感することが、奈良ではたびたびありました。
たとえば、金峯山寺さんでの蔵王権現様ご開帳時の「発露の間」での体験もそのひとつです。大きな蔵王権現様と一対一になって、自分の気持を権現様の前で自分の気持を「発露」してもいいのだ、と思ったときに、涙がぶわっとあふれ出ました。
こんなふうに気持をあらわにしてもいい存在がいるということのありがたさに、心が震えたのだと思います。
いろんなことを我慢したり、耐えたりして生活していることも多い現代社会だと思うのです。つらいことがあったときに「大きな存在」である神様や仏様に手を合わせて、いまの気持を心の中で伝えてもいいのだ。怒りだったり憤りだったり悲しみだったりしんどさだったりと、そんなぼろぼろな気持だったとしても、聞いてくれて見守ってくれる大きさが、人智を超越した存在にはあるのかもしれないと、感じることができる。人間は小さいし、弱い。そんな部分をさらけ出してもいい神仏がいる。
そんなふうに思わせてくれる経験を何度もしました。私はそういうことを感じたのが奈良でした。そのつど、どんどん奈良にのめりこんでいきました。
そして、信仰している方たちとの出会いというものもあります。私は特定の神仏への信仰はしておりませんが、信仰をもっている人たちの存在というのは、奈良に旅をしてきた中でもとても大きいものでした。またそのあたりは別途詳しく書きたいと思います。
守ってきたもの、続いてきたもの、これからも続いていくもの。これからも見ていけたらいいなと思っています。